CIO LoungeMAGAZINE_2023winter
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いたのは、失敗できない酒造りの工程です。「酒は寒造り」といって、冬場しか造りません。結果として冬場の過密なスケジュールで造ることになります。失敗することができないスケジュールです。しかし、これではダメで、もう少しゆっくり、失敗しても立て直しができる酒造りをやっていきたいと考えました。当時、酒造業界の中では私は若い方で、そのころ50歳でした。そんな状況のなかで、いろんな方法や手段を活用してみようと考えました。ちょうど温度計や重量計が安くなってきた時代で、これを使って酒造りしていけばいいよなと思うようになったのがキッカケで、今のような形になってきましたね。私が若い頃は温度計といっても20〜30万円はしていましたが、そのころは3000円で手に入るようになっていました。おられない状況では新たなチャレンジですが、磨きをかけた純米大吟醸を造ろうとされました。それもあそこまで磨きをかけた純米大吟醸です。2つも3つも壁を乗り越えていかなければならないようなチャレンジをされていると思うのですが、如何ですか?桜井会長 そうでもないですよ、最初はいろいろやりましたよ。例えば安いお酒を造ったり、お酒1本買ったらお皿がつきますとかね。そんな中で、純米大吟醸というのは当時まだ市場がなかったのです。買ってくれるお客さんがいるとも思っていない時代だっ矢島 その中で、普通のお酒を造るだけでも杜氏の方がたので誰もたくさん造って売ろうとしませんでした。ところが、その純米大吟醸を造っていくと、それなりに売上が伸びていくのです。他の酒は、やはり短期的な成功はするのですが、長期的には必ず同業他社が入ってきてうまくいかないわけです。こうして純米大吟醸の市場だけは、着実に伸びていきました。だからここへ突っ込むことにしました。うちの場合は、私が製造と経営者と酒売元と全部を一手に握っていたので、純米大吟醸に特化して増やしていくという決断は、社内的にも軋轢なしに意思決定できました。入する必要がありますが、その仕入れルートの構築も、全部桜井会長がやってこられたのですか。桜井会長 そうです。たとえば地元に大きな市場がなかったので、最初から東京市場に特化していきました。東京市場というのは厳しい市場ですよね。日本で最も大きい市場でもありますし。だけど、私たちにはそこしか生き残る選択肢がないから、そこにしがみつきました。  普通だったら、酒蔵というのは、だいたい田舎の名士じゃないですか。そんなところに行って苦労しなくても、地元にいれば商工会議所の会頭とか副会頭のお話が回ってきたり、それなりに地元で食えるじゃないですか。一方、原料の仕入れという点に関しては、山口県はお酒の県としてはマイナーだったので、県内ではいいお米がなかなか手に入らなかったのです。そこで他の県とかいろんなところと交流するようになりました。そのおかげで、結局、一番いいところから酒米を買えるようになりました。地元の酒米ではなく、日本全体をひとつの交流相手として開発することができました。ケットにも展開していこうというのも桜井会長のアイデアですか?桜井会長 そうですね。地元では食えなくて、「10年たったらあるかなあ、うちの酒蔵は」と思っていたような状況から、矢島 その販売ルートや原料となる山田錦をたくさん購矢島 国内のみならず、ヨーロッパやアメリカなど海外マー東京市場という県外に出ることによって生き残れる状況になりました。私たちは、狭い市場で戦うというのは非常に危ないと認識できました。だから、でかい市場に出ていけば出ていくほど、生き残れる可能性が高いと考えたわけです。そうするともう、東京、そして東京のあとはやはり「世界で」ということになります。今考えると、山口から東京へ出ていく方が東京からそのあと世界に出ていくよりもはるかに遠かったですね。が続いて、酒蔵も一旦全部止まって、酒造りの途中で止めたので品質が保証できないということがありました。あの時同じ山口県出身の弘兼憲史さんの島耕作ラベルでお酒を販売されました。ネットで私もようやく1本手に入れたのですが・・・。一日で完売になりましたね。桜井会長 そうですね。実際は半日ですかね、お昼には売り切れていました。矢島 2018年ですよね、いわゆる西日本豪雨で停電5Special Dialogue

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