「獺祭」で有名な旭酒造の歴史を紐解くと、桜井会長が1973年に酒造業界に入られ、その3年後に旭酒造に入社されました。旭酒造は、純米大吟醸とITで一気に成長し、世界に羽ばたいていかれましたが、対談では、当時の酒造業界の実情をはじめ、会長ご自身が進めてこられた経営改革や、逆境のなかでマイナスを常にプラスに変えてこられた経営理念等について貴重なお話を伺いました。私が大学を卒業した1973年は、わが国酒造業界がピークの年で、その後下降線をたどり、経営を引き継いだときの売り上げはピークの三分の一まで低下していました。また旭酒造のある地元には開拓できる市場もなく、生き残るために、「売る酒」ではなく「売れる酒」を作るという目標を掲げ、「いい酒」造りに挑戦しました。しかし杜氏にしてみると余分なプレッシャーに加え、私が地ビールで失敗し、1・9億円もの損害を出したタイミングも重なり、全員辞めていきました。新たな採用も考えましたが、杜氏自体の高齢化もあり、自分で酒造りを始めざるを得なかったのです。またこれまでのような狭い市場では生き残ることも困難と判断し、東京から世界へと、より大きな市場に出る必要があったのです。当時、酒造りでもっとも難しい工程は、「酒は寒造り」といって、冬場の過密なスケジュールで作らざるを得なかったのです。そのため失敗してもやり直しがきく酒造りに挑戦し、その過程で、当時まだ市場がなかった「純米大吟醸」に賭けたのです。さらに会社を発展させるためには、どうしても大きな市場が必要で、その結果として東京に挑戦したのです。一方で原料となる山田錦の仕入れルートの再構築にも手を入れました。その後、東京市場で成功しましたので、その次は、やはり「世界」へと、あっという間に海外に進出することができました。酒造りは杜氏の勘と経験に大きく頼る世界ですが、杜氏がいなくなり、酒造りの原点に返らざるを得ない状況に追い込まれた結果、ITを駆使した酒造りに挑戦したのです。そこでわかったことは、データを取れば取るほど、逆に人手がいるということでした。実は当社には、日本一と言われることが2つあります。一つは、「日本で一番失敗が多い酒造」だということ、もう一つは、製造スタッフ数です。国内酒造メーカーの平均はカーの90名程度に対し、当社は約170名います。酒造りで重要なことは、一つは人手をかけることによって良いものができるということ。デジタル化で細部が見えるようになると、そこに人間が対処することにより、さらに良いものができるのです。もう一つは、当社が最終製品の「ブレ」を容認していることです。獺祭は樽毎に少しずつ異なります。コメも違うし気候も異なります。造るごとに違うのだから、逆に同じものを造るのではなく、各工程 第1章これまでの理事長対談の概要第2号テーマ『酒造りとIT:旭酒造の考えてきたこと』日本酒業界の低迷期における旭酒造の経営改革、逆境を乗り越える発想、そして独自の価値観の追求矢島理事長旭酒造桜井会長が語る旭酒造桜井博志会長 950名程度ですが、全国で最も多いといわれている酒造メー(掲載されている計数等は掲載当時のものです。尚、対談の詳細は各号の対談特集記事をご確認願います)特集ⅡCIO Loungeマガジンでは、第2号の旭酒造 桜井会長から第9号のジャーナリスト 福島敦子氏まで、実に多彩な方々と理事長対談を行い、特集記事をお届けしてきました。対談いただいた皆さまの豊富な経験や深い知見から多くの学びをいただきましたが、いずれの業界にあってもIT/DXは欠かせないものであることを改めて認識しました。本誌ではこれまでの対談をまとめ、私たちが学ぶべきポイントを整理させていただきました。理事長対談からの学び
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