CIO Lounge Magazine_2025summer
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津田塾大学での学びと影響マスコミへの挑戦と挫折いただいており、年に3回ぐらい会議があって、その都度、帰省しております。松江は城下町でしっとりとした風情があり、何と言っても食べ物が美味しいですね。特に日本海や汽水湖である宍道湖の幸、さらには島根の黒毛和牛とか、野菜や果物もすごく美味しいですね。小さい頃から美味しい天然の魚を当たり前のようにいただいていて、魚に養殖があることを知らなかったのです。スーパーマーケットに行っても天然の魚しかありませんので、大学に入って上京してから東京のスーパーの魚売り場に養殖って書いてあって、養殖って何?って感じで、カルチャーショックを受けたことを記憶しています。矢島 と思った一番のモチベーション、きっかけは何でしたか?福島氏 の卒業生だったのです。当時の私の目から見る女性像としては、きりりとした、かっこいい女性で、バリバリ自立して仕事をされているという方でした。私も将来、先生のように自立して、しっかり仕事をしていける女性になりたいと思いました。津田塾大学は女性の自立を非常に重視している学校でしたので、先生との出会いから行ってみたいなと思ったのが、最初のきっかけでしたね。矢島 ね。また、福島さんの同年配で津田塾大学出身の方で活躍されている方が多いですよね。福島氏 すか、女性の自立を重視するスピリッツがあって、それが大学に脈々と受け継がれ、息づいています。同級生たちも社会に出て、自分はどんな役割を果たそうか、どういう仕事について自立して生きて行こうかということを、真剣に考えていたのですね。周りにそういう同級生たちがいたということも、その後の私自身の仕事に対する思いとか、自立心に大きな影響を与えたと思います。津田塾大学に入って、そういう面で良かったなと思っています。矢島 それから、上京されて津田塾大学にチャレンジしよう高校の時に英語を習っていた先生が、津田塾大学津田梅子先生が5千円札になり、誇りになりますよそうですね。津田梅子さんの進取の気性といいま学生の時に感じた文化、価値観というのは、非常に大事だということですよね。福島氏 そうですね。今の時代、女子大の存在意義って何?というようなことを問われることがよくありますね。確かに時代は変わってきました。しかし、当時は、高校でも中学でも、男子生徒がいろんな面でリーダーシップを発揮するという時代でした。例えば、生徒会長は男子が当たり前とか、女性はいつも補助的な役割みたいなことがありました。そうした社会環境の中で、女子大では、当然ながら女性たちがリーダーシップを発揮し、いろんなことを考え、企画し、行動していました。それも私にとっては非常に良かった。意識改革を進め、女性がイニシアティブを発揮し、行動していく。それを経験できる場が女子大だから必然的にあったことも、今にして思えば良かったと思います。【アナウンサー時代】矢島 その後、大学を卒業されてマスコミを目指そうとされた動機というのは何でしたか?福島氏 非常に単純なことなのですが、中学、高校の時に大変、好きでよく見ていたTBS系列の情報番組で、「朝のホットライン」という番組があったんです。毎朝、世界を含めて色々なジャンルで活躍をしている人たちの生き方を伝えるような番組だったのです。前の日に学校で嫌なことがあっても、その番組を見てエネルギーをもらって元気になって学校に行くみたいな、そんな番組だったのです。自分も将来こういう番組で伝える側になれたら、そんな面白い仕事をやってみたいというのが最初のきっかけでした。色々なジャンルの方に、普通ではなかなか会えない方に直接お会いでき、話が聞けて、そこで感じたことを自分の言葉で発信できるという仕事はとても刺激的ですし、自分の世界を広げることのできる仕事だと思ったのです。それがきっかけでマスコミ関係に行きたいという思いが強くなりました。もう一つは、大学4年生の時に、実際に、放送と出版の両方の分野の第一線で活躍されてこられた方が、外部講師として3年生対象のメディア論というゼミを持たれていたのです。私は4年生でゼミの正式な受講生にはなれなかったのですが、無理をお願いして聴講させていただいたのです。その先生の授業が非常にダイナミックで、現実のメディアの世界のお話をいろいろ聞かせていただいて、それでますます、メディア関係に行きたいと思いました。そういう流れでしたね。矢島 のは、かなりハードルが高くはなかったですか?福島氏 思いがありましたので、放送局のアナウンス職を第一希望としていました。どこも採用人数が2〜3人という狭き門ということもあり、たくさんの放送局の試験を受けましたが、全部落ちてしまいました。それで、当時、大学を卒業してしまうと採用試験を受けるチャンスが狭まると思い、1年留年してもう一度、マスコミ関係を目指したいなと思ったのです。しかし、当時の女子大生の就職はとても厳しくて、あの頃は、大手の銀行、商社、メーカーなどはどこも募集要項に、女子大生は自宅通勤者のみ対象とはっきり記載されていた、そういう時代でした。まだ男女雇用機会均等法ができる1年くらい前で、女性は1つ歳をとるだけでも相当、就職に不利になるという厳しい時代でした。それで、マスコミ以外の違う業種の採用試験もいくつか受けていて、合格をいただいた企業もありました。留年したいという気持ちもありましたが、親の大反対にあい、別の業種の会社に入ったのです。会社は大手で安定していて、周りの方も非常に良い方ばかりで、何不自由ない新社会人の生活をスタートしました。しかし、本当に自分がやりたかったことは何だったのかということを、自問自答するようになり、結局、3か月で辞めてしまいました。矢島 福島氏 相当、心配をかけてしまいました。事後報告で親に報告した時、父はもう怒り心頭で勘当を言い渡され、公衆電話の受話器の向こうから、母のすすり泣く声が聞こえてきて、両親がこの子の人生、この先どうなるのかという絶望感を抱いていたことをすごくよく覚えています。今振り返りますと、大学卒業したばかりの社会の怖さ、厳しさを何も知らない、22歳の無鉄砲な決断でした。しかし、当時、女性がマスコミ関係に入っていくというそうですね。私は自分の言葉で発信したいというマスコミへの思いが本当に強かったのですね。職場の方にもすごい迷惑をかけましたし、親にも4Atsuko Fukushima Takao Yajima

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